ミッション8:ファイナル・パリッシュ(最後の仕上げ)


  投入地点
  目標
  離脱地点


@見つかるな(殺傷数7人まで)
Aカダフィの生死に関わらず彼を捕らえよ
B離脱地点に集合せよ
×フセインとアラファトを暗殺せ


 2004年10月31日 19:05 晴れ イラク、バグダッド南

 さて諸君、晴れたイラクに着いたぞ。サダム・フセインの気前の良い「親切」のおかげで、カダフィは小さな巣穴に潜り込んだ。我々はサダムが勇敢なリビアの指導者に貸している小さな天国に情報を絞り込んだ。

 カダフィを必ず捕らえろ、とは言わない。奴を生かしておけ。しかし少しでも抵抗するような態度をとった場合は奴自身に責任をとらせろ。

 もし我々の情報が正しければ、自由主義を促進させるためのさらなる機会がアフリカだけでなく中東も同様にもたらされるだろう。フセインがカダフィを呼び寄せたらしいので、君には奴等の会合の日に合わせてちょっとした日帰り旅行に行ってもらう。ヤーセル・アラファトもその場に現れると噂されている。

 わずかな運で、君はこの世界に自由をもたらすための決定打を放つだろう。我々はもし機会が与えられれば、サダムの生死に関わらず奴の身柄を拘束したいと思っている。アラファトも我々の手によって同様に、イスラエルに永遠をもたらすための利益になるだろう。



(※1)ヤーセル・アラファト:[`Arafat, Yasir] (パレスティナ 1929〜 ) 実在の人物。政治家。エルサレム出身で、1948年の第一次中東戦争により難民となったといわれる。カイロ大在学中から、ガザのパレスティナ学生同盟議長として解放運動に加わり、'50年代後半パレスティナ民族解放運動(ファタハ)創設に参加。'69年ファタハ議長兼パレスティナ解放機構(PLO)議長。'70年のヨルダン内戦で軍事的打撃を受け、ベイルートに本拠を移したが、イスラエルのレバノン侵攻('82年)後は更にチュニスに移って活動を続けた。'87年以来被占領地で続いたインティファーダ(反イスラエル抵抗運動 )を受け、'88年フセイン・ヨルダン国王がヨルダン川西岸における主権放棄を宣言すると、アルジェにパレスティナ民族評議会を召集。西岸及びガザ地区を領土とするミニ・パレスティナ国家の樹立を宣言し、翌月にはアメリカと直接会談を開始するなど和平攻勢に出た。'90-'91年の湾岸危磯では一貫してイラク・フセイン体制を支持。湾岸産油国など従来PLOを支援して来たアラブ諸国の支持を失い、苦しい立場に立たされたが、'93年イスラエルとの相互承認,暫定自治原則に関する合意を実現。ハマース(イスラーム抵抗運動)などの反対にあいながら、暫定自治体制づくりのための交渉を続けている。
    (近代アラブ・イスラームの研究のホームページ より)